日本小児放射線学会とは/沿革と概要(歴史)
臨床小児放射線研究会のあゆみ
研究会設立まで
欧米では小児放射線医学の歴史は古く、X線が発見された2年後に小児を専門に扱うX線科があったという。永らく日本では、小児専門のX線科は存在しなかった。医学の進歩は小児医療にも小児放射専門医の必要性が認識され、昭和40年秋に大坂市立小児保険センター及び国立小児病院が開院し、夫々に放射線部門が設置された。これが日本における小児放射線科のこう矢であろう。
日本医学放射線学会では、秋の臨床シンポジウム部会(昭和40年,43年)などで、小児放射線関係のシンポジウム、展示発表及び教育講演を採用し、さらには講習会(昭和43年)などを開催した。放射線科医の小児放射線医学に対する関心は高まり、知識は急速に向上した。当時全国各地に小児病院が次々と建設される趨勢似合ったが、これに対応すべく大阪市大放射線科玉木正男教授(現名誉会員)は小児放射線医学を育成するため研究会の設立をしょうようされた。この趣旨は昭和44年8月、大阪市立小児保険センター小池宣之所長(現多根病院)らから別掲の手紙を各大学の放射線科教授および小児放射線医学に関心を有する人々に配布された。
小池氏の呼びかけに対して、78通の回答があり、そのうち49通は研究会の設立に賛成であった。44年8月30日の会合は国際放射線会議の打ち合わせの当日であり、放射線科医のみ20名が参加した。この会合で以下の申し合せがなされた。
1. 小児放射線医学研究会を設立する。
2. 研究会は当分の間(約10年間)、日本放射線学会のもとで同好会的なものとして行なう。
3. 小児科、小児外科その他にも参加を呼びかけ協力関係を密接にするが、まずは放射線科医の小児放射線医学に対するレベルの向上と多くの小児放射線科医の育成に努め、全国各地の小児病院の放射線科を担当できるようにする。
4. 研究会の事務局は大坂市立小児保険センター内に置き、小池宣之氏がその掌にあたる。
5. 研究会の開催日は、日本医学放射線学会に連続して、その前後に行なう。
などであった。
大阪地区では昭和44年10月に国際放射線会議(東京)で来日した OHIO 大学小児放射線科教授 TUCKER氏を招待し、講演会と小児放射線医学に対する意見の交換がなさた。 昭和45年には日医放臨床シンポジウム部会で再び小児放射線関係の主題及び教育展示などがあり、研究会創設の基礎は益々固まってきた。
しかし、昭和46年に研究会の事務局担当であった小池氏が、以下の諸事情から事務の停滞を危惧し事務局の東京移転を希望された。すなわち、
1. 自治体の現業機関では研究会事務を扱うのに不向きのこともある。
2. 所長業務が特に、多忙になった。
3. 研究会設立を支援されていた鳥取大、阿武保郎教授が学園紛争のため協力が難しくなった。
4. 関東地区は小児放に関心の高い会員が多い。
などであった。
これをうけて日大放射線科榊原聡彦教授が東京在住の有志と相談を重ね、昭和47年7月に次の如く決定した。
1. 会の名称は臨床小児放射線研究会とする。
2. 研究会会長は臨床シンポジウム部会長とする。
3. 研究発表は日医放臨床シンポジウム部会と同時期に開催する。
4. 研究会の事務局は日大放射線科教室内に置く。
臨床小児放射線研究会の設立と開催について、日本医学放射線学会に対しての提案説明は第32回日医放評議員会(昭和47年7月10日)で、榊原・小池両氏によりなされ承認さた。これにより、第1回研究会が同年秋の臨床シンポジウム部会の前日(昭和47年10月15日) に挙行されることになった。
なお、当時東京地区では日本医大小児科村上勝美教授(現名誉会長)を中心に小児放射線研究会が活発に行なわれていた。放射線科側からも田坂皓、名誉会員野辺地篤郎 名誉会員,鈴木宗治 世話人 及び亘理 勉 世話人,の各氏らが参加していた。この会との関係は、臨床小児放射線研究会が国内全体を対象とし、診断の治療法なども含めて研究活動をする。又、村上教授の会は東京付近で症例検討を中心に行なうことで諒解された。
研究会活動
研究分野について
研究会は発足にあたって取り扱う研究会の内容を診断学のみに限定せず、小児放射線に関する全分野を包含することにした。これは欧米の夫と多少異なるが、小児放射線治療の特殊性を重視する必要があったこと。また同好の士を多く集めることなどから総ての領域を含めることになった。そして研究会をこの形式で我国独自のものとして維持していくか、あるいは外国に同調して治療等を除外するかは10年後に再検討することにした。
そして研究会創設より10年後の昭和56年4月、研究会の見直し、研究会発展のための具体的方策等を検討するため臨床小児放射線研究会あり方検討委員会(委員長加藤富三氏他6委員)が設けられた。委員会はアンケート調査の結果なども参考として「本研究会の活動分野を小児放射線医学の全分野を包含する」と答申した。現在これに沿った研究活動が実施されている。
小児放射線研究会20年の歩み
第21回臨床小児放射線研究会(昭和63年10月13日,久留米大放射線科大竹久教授)の世話人会および総会で、本会の名称が日本小児放射線研究会に改称された。これを記念して長島会長から"日本小児放射線研究会20年の歩み"を述べるようにと要請された。
まず、研究会設立の前後の状況を振り返ってみると、我国経済は高度成長期にあった。医療面では結核対策が著しい成果を挙げ、がん対策が強調され昭和35年(1960)に国立ガンセンターが開設された。又、小児医療の充実強化については、昭和40年(1965年)秋に日本で初めて開催された国際小児科学会議似合わせて、東京に国立小児病院が、また大坂には大阪市立小児保険センターが開院した。我国に初めて小児専門病院と放射線科が開設されたわけである。これはアメリカのニューヨーク市立小児病院(1854年)フィラデルフィア市立小児病院(1855年)の設立におくれること約100年である。
昭和40年頃の放射線科医の放射線学に対する知識と関心は、東京地区では少数の同好の士によるフィルム読影会はあったが、一般にかなり低かった。日本医学放射線学会では、小児放射線医学の知識を高めるために、臨床シンポジウム部会(現在の秋季臨床大会)などで再三に渡って小児放射線学関係の教育講演、シンポジウム及び展示発表などを実施した。この結果、放射線科医のレベルは著しく向上した。当時、全国各地に小児専門病院の建設計画があり、小児放射線科医の需要に対する必要に迫られていた。幸い当時の大阪市立大学放射線科教授の玉木正男名誉会員が社会の要望に急速に応ずるには、研究会を設立し人材の養成をするのが最良の方法であると提唱された。これを受けて研究会設立の幹事役を、当時の大阪市立小児保険センター小池宣之博士(現世話人)が担当される事になった。小池博士は昭和44年(1969年)に、別掲の研究会設立の趣意書を山田龍作博士と連名で全国の大学放射線科教授及び小児放射線医学に関心のある有志に配布され、研究会の設立と準備委員会への参加を呼びかけられた。同年の秋に東京で第12回国際放射線学会議が盛大に開催されたが、その準備会を利用して8月30日に研究会設立の合意がなされた。これより今年で丁度20年である。
その後、小池所長が多忙などのことから幹事役が榊原聡彦日本大学教授に交代し、事務局が日本大学放射線医学教室内に設置された。そして高橋良吉名誉会員(当時、日大放射線科助教授)が候補することなった。昭和47年7月になって研究会の実施が確認され、日本医学放射線学会の理事会、評議員会の賛成を得て、待望の第1回臨床小児放射線研究会が昭和47年10月15日(1972年)に群馬大学放射線科 故,戸部龍夫教授を会長として前橋市で開催された。当時の状況を第20回研究会(昭和63年6月)の会長松山四郎世話人が、研究会雑誌第4巻、第2号の巻頭言で感慨深く述べられている。
ちなみにアメリカの第1回小児放射線学会(Society for pediatric radioligy)は1958年(昭和33年)であり、また第1回ヨーロッパ小児放射線学会は1963年(昭和38年)である。
本研究会は、会員諸兄姉のご承知の如く、名誉会員を始め歴代の会長、世話人各位並びに会員の協力によって順調に発展してきた。